以下、昔の2chコピペw
76 名前: ベム 投稿日: 2001/05/26(土) 13:40
ちょっとだけ吾も詳しいけど、すごく壮大な話だと思うよ。
まず孝明天皇の死について知るべきだよ。そしてその後どうなっていったかも…。
旭形亀太郎を知ってる人はいるのかな?
78 名前: ベム 投稿日: 2001/05/26(土) 14:36
玉鉾神社知ってますか。
80 名前: ベム 投稿日: 2001/05/26(土) 14:55
すいません。
なぜ、「大室寅之祐が明治天皇になったと言える」と同じスレが
乱立して、荒らし放題になっているのですか?
教えてください。
81 名前: 日本@名無史 投稿日: 2001/05/26(土) 15:04
>>80 肛学電波くんがピリオドだけのAA貼りまくってスレ1
が開けなくなったから。5/25の18:30頃からだった。
82 名前: ベム 投稿日: 2001/05/26(土) 15:09
はい。なるほど。ありがとうございます。
でも、大室寅之祐論を封殺するための反対活動のためだけですか?
幼稚ですね。
83 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2001/05/26(土) 15:14
>>80
それでは状況経過を説明すると、
昨日の夕方ころ、「大室寅之祐が明治天皇になったと言える勇気
を持とう」(以下パート1と略)のスレのレスが700を越えたあたり
から断続的に荒らしが入った。荒らしの内容は、今乱立している
大室スレを見れば分かる通り改行空欄だけのもの。
それから、大室スレが乱立した。またそれに呼応するように反アズマ
スレが乱立した。そういう状況です。
因みに、パート1のスレは荒らしが原因で容量オーバーとなり、
閲覧不能になっています。またパート1の荒らしと乱立している
大室スレと反アズマスレはいずれも現在削除依頼に出されています。
85 名前: ベム 投稿日: 2001/05/26(土) 15:45
>>83
よくわかりました。ありがとう御座いました。
ということは、ここでまともな議論は無理という事でしょうか。
大室寅之祐についてちょっと語り合いたかったので、残念です。
86 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2001/05/26(土) 15:52
>>85
パート1は900近いレスが付いているので、(もちろんコピペ荒らしは
あるが)関心高い人は多いと思う。多少の嫌がらせを無視すれば議論
は十分可能です。嫌がらせと言うのは、例えば関心が高い人が多いと
書くと「ほとんど自作自演」とレスしてくるようなこととかね(藁)。
88 名前: ベム 投稿日: 2001/05/26(土) 16:16
日本史板ってそういう処なんですか。
「わが命 あらむ限りは 祈らめや
遂には神の しるしをも見ゆ」
孝明天皇御製(安政六年六月十五日)
89 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2001/05/26(土) 16:20
>>78
玉鉾神社って孝明天皇を祭っている神社なんでしょうか。
詳しいことはよくわかりません。
90 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2001/05/26(土) 16:22
三浦芳聖と田中光顕の対話(1)
昭和四年のニ月、私は思いきって極秘伝の「三浦皇統家系譜」及び記録を埋蔵せ
る地下から掘り出していって、山口鋭之助先生に見ていただきました。
先生はびっくりして、
「私の一存では何ともお答えできないから、私の大先輩でかつては宮内大臣をなさ
った明治維新の勤皇の志士であった田中光顕伯爵がまだ御生存中であるから、此の
方にお尋ねして見よう」ということで私は連れていって頂きました。
田中光顕伯爵は之を御覧になり、又私の神風串呂の説明を聞かれて、
「これは我が国の一番正しい歴史だ!確かに『太平記』をみても『比叡山に於て
後醍醐天皇が春宮に御位をお譲りになった』と書いてある。
学者間に於ては、之を恒良親王に御位をお譲りになったといわれているが、
あなたの所の記録を見れば「尊良親王の第一皇子守永親王が、後醍醐天皇の第七
の宮として大統宮となっていて、後醍醐天皇は守永親王に御位をお譲りになった」
と書いている。
91 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2001/05/26(土) 16:23
これが正しい歴史であろう。
けれども、今現在は明治維新が断行されて、宇宙のあらん限り、絶対に千古
不滅の欽定憲法が御制定になった。だから過去の歴史は歴史として、現実は此の
欽定憲法に依って大日本帝国の国体は永遠に確立せられたのである。
あなたが今此の事を発表したならば、それこそ幸徳秋水同様、闇から闇へと大
逆罪の汚名を被せられて極刑に処せられることは火をみることよりも明かなこと
であるから、あなたのお父上がおっしゃった通り、早く埋蔵して何人にも一切語
られぬがよろしい」と言われて、さっぱり私の疑問を解いていただくことは出来
ませんでした。
そこで私は、
「伯爵は之は日本の正しい歴史だと御鑑定なされた。その正しい歴史を私が発表
する事が、欽定憲法に触れて極刑に処せられると言われたが、私は他人と違って
その直系の子孫であります。私の生命観ではとても耐えられません。それを発表
する事が極刑に処せられる様な欽定憲法であれば、今このまま、直ちに私を司直
に渡して極刑に処していただきたい」と申し上げました。
93 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2001/05/26(土) 16:24
斯様申し上げた時に、田中光顕伯爵は顔色蒼然となられ、暫く無言のままであ
られましたが、やがて、
「私は六〇年来かつて一度も何人にも語らなかったことを今あなたにお話し申し
上げましょう。現在此の事を知っている者は、私の外には西園寺公望公爵只御一
人が生存していられるのみで、皆故人となりました」と前置きされて、
「実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。孝明天皇はいよいよ大政奉還、明治
御維新と云う時に急に崩御になり、明治天皇は孝明天皇の皇子であらせられ、御
母は中山大納言の娘中山慶子様で、お生まれになって以来、中山大納言邸でお育
ちになっていたと云う事にして天下に公表し、御名を睦仁親王と申し上げ、孝明
天皇崩御と同時に直ちに大統をお継ぎ遊ばされたとなっているが、実は明治天皇
は御醍醐天皇第十一番目の皇子満良親王の御王孫で、毛利家の御先祖、即ち大江
氏がこれを匿って、大内氏を頼って長州へ落ち、やがて大内氏が滅びて、大江氏
の子孫毛利氏が長州を領有し、代々長州の荻に於て、此の御王孫を御守護申し上
げて来た。これが即ち吉田松陰以下、長州の王政復古御維新を志した勤皇の運動
である。
吉田松陰亡き後、この勤皇の志士を統率したのが明治維新の元勲木戸孝允即ち
桂小五郎である。元来長州藩と薩摩藩とは犬猿の間柄であったが、この桂小五郎
と西郷南州とを引合わせて遂に薩長を連合せしめたのは、吾が先輩の土佐の坂本
龍馬と中岡慎太郎である。
薩長連合に導いた根本の原因は、桂小五郎から西郷南州に『我々はこの南朝の
御正系をお立てして王政復古するのだ』と云うことを打ち明けた時に、西郷南州
は南朝の大忠臣菊池氏の子孫であるから、衷心より深く感銘して之に賛同し、遂
に薩藩を尊皇討幕に一致せしめ、薩長連合が成功した。之が大政奉還明治維新の
原動力となった。
明治天皇には明治維新になると同時に『御醍醐天皇の皇子征東将軍宗良親王の
お宮を建立しておまつりせよ』と仰せになり、遠州の井伊谷宮の如きは明治二年
本宮を造営せられ、同五年御鎮座あらせられ、同六年には官弊中社に列せられた。
94 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2001/05/26(土) 16:24
而して御聖徳に依り、着々として明治維新は進展し、日清、日露の両役にも世
界各国が夢想だにしなかった大勝を博し、日本国民は挙って欽定憲法の通り、即
ち明治天皇の御皇孫が永遠に萬世一系の天皇として此の大日本帝国を統治遊ばれ
ると大確信するに至り、然も明治四十四年南北朝正閏論が沸騰して桂内閣が倒れ
るに至った時に於ても、明治天皇は自ら南朝が正統である事を御聖断あらせられ、
従来の歴史を訂正されたのである。
斯様にして、世界の劣等国から遂には五大強国の一つとなり、更に進んで、今日
に於ては、日英米と世界三大強国の位置にまでなったという事は、後醍醐天皇の
皇子の御王孫明治天皇の御聖徳の致すところである」
と王政復古明治維新の真相を語り、尚此の外に、岩倉具視卿の活躍や、三條以下
七卿落ちの真相や、中山忠光卿の長州落ち等々、詳細に渉ってお話し下さいまし
た。
96 名前: ベム 投稿日: 2001/05/26(土) 16:32
>玉鉾神社って孝明天皇を祭っている神社なんでしょうか。
>詳しいことはよくわかりません。
すごく壮大なドラマだよ、これだけで。
――――――― 玉鉾神社 ―――――――
御祭神 第百二十一代 孝明天皇
御鎮座地 愛知県知多郡武豊町向陽
※孝明天皇を祭る神社は、玉鉾神社と京都の平安神宮の二箇所のみと記憶しております。
106 名前: ベム 投稿日: 2001/05/26(土) 17:15
三浦芳聖と田中光顕の対話(1)
読ませて頂きました。大変面白いですね。
これが本当だとすると、何故孝明天皇を長州藩士が最初から
暗殺しょうとしていたのか判ります。
蛤御門の変では明らかに天皇のいる建物を鉄砲で撃ちかけていて、
前から不審な感じがしていたのです。
107 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2001/05/26(土) 17:15
>>96
>すごく壮大なドラマだよ、これだけで。
凄く気になります。あまり知識があるほうではありませんが、
概要をご教授いただけませんか。
108 名前: ベム 投稿日: 2001/05/26(土) 17:28
>凄く気になります。あまり知識があるほうではありませんが、
>概要をご教授いただけませんか。
はい。今、本をもって来ます。ただし、私の資料は鹿島昇氏とは関係ありません。
109 名前: ベム 投稿日: 2001/05/26(土) 18:48
佐藤紋次郎は、明治元年辰年の三月九日に名古屋から西南五里ばかり離れた海部郡日置の農家に生まれた。徴兵検査後、紋次郎は知人を頼って名古屋へ出て、人力車屋の曳子になる。明治二十四年春名古屋駅で三人ずれの客を他の俥夫と共に若松町まで乗せることになる。そこで、力の強い紋次郎が、客の中で一番大きな相撲取り風の男を乗せる。その客こそ、旭形亀太郎でした。それ以来、旭形は行きも帰りも必ず紋次郎を呼び、「佐藤さん、佐藤さん」と可愛がった。ある時年齢を聞かれた紋次郎は「辰年の生まれです」と答えると、何故か旭形は紋次郎の弟子入りを切望する。
弟子入り後、紋次郎は旭形の薫陶を受け、「今までの一にも二にも金という世界」から一足飛びに、「一に天皇様、二にお国」と変わっていった。
110 名前: ベム 投稿日: 2001/05/26(土) 18:49
旭形亀太郎は天保十三(1842)年三月二十五日、大阪市島ノ内大宝寺中ノ町の速水清兵衛の次男として出生した。祖父は院(上皇・法王・女院の御所)に仕える北面の武士で、祖父の寵愛が深く、旭形は幼い頃から祖父に尊皇の志を叩き込まれる。
その後、勤王攘夷の論争が激しくなるにつれ、伊藤博文が率いる長州藩力士隊が組織されると、亀太郎はその隊に加わり、「旭形」と四股名を名乗ります。そして隊長の命を奉じて勤王のために奔走することになります。
文久二(1862)年十二月、亀太郎二十一歳の時、勤王力士隊を組織して自ら隊長になり、宮中守衛の一部に任ぜられることを出願し、翌年正月に勅許を得て総指揮となり、日夜宮中に奉仕します。
こうして旭形が孝明天皇の身辺を守護し始めてから二年後、禁門の変が起こります。
111 名前: 日本@巡回おまわりさん 投稿日: 2001/05/26(土) 19:00
>>1
みなの者よく聞け
今日はAAないだろうな
112 名前: ベム 投稿日: 2001/05/26(土) 19:10
元治元(1864)年、禁門の変(蛤御門の変)についての歴史的背景・詳細は略させて頂きます。
戦いは一日で終わりますが、京都の街は三日間にわたって燃え続け、焼失家屋は二万八千余戸に及んだといいます。激しい戦いで、流れ弾が御所内にも飛び交い、睦仁親王は恐怖の余り気を失い、公卿の中御門経之が水をふくませて息を吹き返したと伝えられています。この時、睦仁親王(後の明治天皇とされている) は、数え年で十三歳、孝明天皇は数え年で三十四歳です。
114 名前: ベム 投稿日: 2001/05/26(土) 19:39
以後『たまほこのひ可里』より、
「元治元年七月十九日払暁長州藩の脱兵福原越後等、時の守護職松平容保を穫(とらえ)んと思い隊を分ちて堺町、下立売、蛤の各御門に発砲して逼(せま)りし折りの出来事で御座います。飛弾は益々激烈となり、畏れ多くも玉座の間近まで飛び来るやうになり、御側近に侍る公卿を初め悉(ことごと)く顔色を失い為す所を知らなかったので御座ゐますが、ひとり孝明天皇様に於かせられては平常と何の御変りも無く泰然と飛弾の状を御覧遊ばして居られましたので、先生 (註:旭形亀太郎)は遉(さすが)は!と感嘆されたさうで、其の中にも戦いは増々激しくなり、遂に玉座も危うく思はれたので御座ゐます。
先生は最初から御側近に御守護申されて居ったとは謂へ、玉体の御守護は玉の御声のかかるまでは如何に危うく思はれても手前から進み出る訳には参りませず、非常に心を痛めながら詮術無く、我が身の危険は遠に忘却して案じ申されて居た矢先で御座ゐますから、飛び立つ思ひで御前に進まれたので御座ゐます。」
118 名前: 長靴をはいた猫 投稿日: 2001/05/26(土) 20:09
>>114 わくわく。そして?
119 名前: ベム 投稿日: 2001/05/26(土) 20:17
「一天万乗の大君様を躬(み)を以て御守護申せとの玉の御声!常に御側に仕え奉る高貴の身ならばいざ知らず、心に錦を着るとも身は賤しき一力士、斯かるこよなき大任を戴くとは!嗚呼何たる光栄ぞ、処身はたとひ飛弾の為僵(たお)るとも斯の大任を達せずにおられようぞ!感激に打ち震へて仕え奉らうとされましたが、さて速刻処場を去るに背に負ひ申せば吾よりも返つて玉体が危く、されば平手に御受け申し仕え奉らうと金剛力を振出して飛弾の中を掻潜り危地を遁(のが)れられたので御座ゐます。(つまり、抱きかかえたのではなくて、両腕で持ち上げて逃げた)
途中先生は背に数個の弾丸を受けられましたが、少しも色に出さず見事この大任を果たされたので御座ゐます。」
121 名前: ベム 投稿日: 2001/05/26(土) 20:31
「事平ぐの後、天皇様は先生の至忠を嘉ばせ玉いて左の御製を賜りました。
照る影を ひら手にうけし 旭形
千代にかがやく いさをなりけり
天皇様は亦この時、紫宸殿に於て先生へ神国の秘法(紙切神示)を伝授し玉ひ御宸筆(天皇の直筆。勅筆)の経綸書と御旗を託し遊ばされたので御座ゐます。…」
124 名前: 長靴をはいた猫 投稿日: 2001/05/26(土) 20:45
>>121 それからどうなったの?
125 名前: ベム 投稿日: 2001/05/26(土) 20:45
ここまでの事は、『たまほこのひ可里』『照日乃影』(書名も御製)にあります。
御製の歌の色紙もあります。さらに、傍証として、嵯峨實愛が旭形に贈った和歌、さらに東久世通禧がその書が直筆であると証した文が残っています。
128 名前: 日本@巡回おまわりさん 投稿日: 2001/05/26(土) 20:54
おいAAヤメロといってるが・・
129 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2001/05/26(土) 20:54
>>125
なるほど、旭形が孝明天皇から絶大な信頼を得ていたというわけ
ですか。でも長州と旭形の関係が気になります。長州と深い関り
を持つ旭形が何故、孝明天皇から信頼されたのか。禁門の変の際、
彼は結構複雑な立場だったのではないでしょうか?
131 名前: ベム 投稿日: 2001/05/26(土) 21:12
>何故、孝明天皇から信頼されたのか。
代々北面の武士の家系だったようですが、詳しくは判りません。
>禁門の変の際、彼は結構複雑な立場だったのではないでしょうか?
禁門の変の時既に、二年間も宮中の警備をしていた訳です。
それに長州藩系の組織から抜け出して、宮中の警備を願い出たということからして、
長州藩系の組織に居てはいけないという思いがあったのではないでしょうか。
137 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 2001/05/26(土) 21:15
このAAは削除依頼したほうがいいな。
また容量オーバーになって開けなかったり等
不都合が起こるかも知れないし。
139 名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2001/05/26(土) 21:17
>>125
>(佐藤)紋次郎は旭形の薫陶を受け、「今までの一にも二にも金という
>世界」から一足飛びに、「一に天皇様、二にお国」と変わっていった。
佐藤紋次郎はどうなったのですか?
140 名前: ベム 投稿日: 2001/05/26(土) 21:37
さて、ここまでで、全体の20分の1以下です。
書き込みに疲れました。
それに、ここから先は史実でも、皆さんの反発があるでしょうから書き込み意欲が薄れてきました。
143 名前: ベム 投稿日: 2001/05/26(土) 21:48
日本史板がこれほどマナーが悪いとは予想して居りませんでした。
私は一切創作などしていません。
ここは議論をする処ではないですね。幼稚過ぎます。失礼致しました。
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